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そこそこ

一人ジェンガ2·7,411·投稿 2026.04.24·更新 2026.04.24

銀色の小さなトングがコーヒーカップの上で静止した。 それから一呼吸置いて、トングの先から真っ白な角砂糖が落下する。 先を広げたトングは、すぐにシュガーポットへ移動して、新たな角砂糖を摘んでカップの上へ戻る。そしてまた真っ白な立方体がコーヒーカップへ消えていった。 聞こえもしないちゃぷんと言う音がする度に、私は銀のトレイで半分隠した顔を肯く様に動かしながらそれを数える。

1、2、3、4、5

5?5て!! 5は多過ぎるわー。 糖質オフムーブのご時世で5はないわー。

そう思っているうちに件のトングはいつの間にかスプーンに持ち替えられ、くるくると、それはもう念入りにくるくるとコーヒーカップの中で円を描き続けている。

混ぜるねー。 最初から最後まであっまーーいコーヒーになっちゃったねー。

そして壁際の4人がけの席に座った金髪の青年は、コーヒーカップの華奢な持ち手に指をかけ、それを一気に飲み干した。

え?え?マジで?一気??飲んじゃったの??

と思うと同時に「うへー」とあからさまに嫌な顔をして、グラスのお冷やも一気に飲み干す。 有能なウェイトレスの私は、すかさず滴のたっぷりついたピッチャーを布巾で一撫でする。 「お冷やのおかわりいかがですか?」 これが私と彼とのファーストコンタクトだった。

彼は月に1、2度、タバコの匂いが染み付いたこの古めかしい純喫茶を訪れる。 ガンガンにブリーチを決めた白人みたいな金髪をふわふわ揺らしながら、彼は決まってメニュー表のブレンドを指差して「これ」とだけ言う。それから私が運んだそこそこの味しかしないブレンドに角砂糖を5つ入れて一気に飲み干すと、立て続けにグラスのお冷やも一気に飲み干す。 この儀式が終わると、ノートPCを開いて忙しなくクリックとタイピングを繰り返し、時折り難しい顔で空を見つめる。 視線のその先に何かがあるのかと思って追いかけたら、天井にミッキーマウスみたいなシミがあった。いい具合に並んだ3つの丸いシミは問答無用で人を喜ばす。ハハッ。やったね!

激甘コーヒーの儀式から2時間経つと、彼は無言でレジへやって来る。彼に気付かない時や接客中でも呼び鈴を鳴らさずただそこに立ってスマホをいじってる。慌ててレジに立った私と向かい合わせになると、携帯を翳して会計を済ませるのがいつものパターンだ。 彼がこのお店の中で声を出すのは、オーダーの時にメニューを指差して言う「これ」と会計を済ませてから言う「ごちそうさま」の二言たけだ。 両方ともぼそぼそと口の中で言ってるのに、きちんと耳に届く不思議な声だと思う。 私は彼を甘党さんと呼んだ。 金髪さんか甘党さん、彼を呼ぶにはこの2つしか選択肢が無い。迷わず甘党さんを選んだのは、角砂糖をあんなにたくさん使う人を他に知らないからだ。

その頃の私は、いつも何かを待っていたんだと思う。何かは何かだ。胸が震える様な、予想もつかないドラマチックな今とは違う〝何か〟だ。 古めかしい純喫茶の中であからさまに浮いている甘党さんと向かい合って、彼しか使わない電子マネー決済機のおどけた音を聞いた瞬間、これは運命の鐘の音に違いないと思った。この人は、きっと私にとっての〝何か〟なんだと。

「千花ちゃん、悪いけど休憩終わったら、表のポスター剥がしてきてくんない?ほら、今日で5%還元終わるから」 スポーツ新聞にすっぽり顔が隠れたまま店長のタバコの煙がそう言った。 「あー、あんな主張してんのに意味無かったポスターねー」 私は私でさっきまで甘党さんが座ったソファに腰掛けて、踵だけ脱いだパンプスを爪先でブラブラさせていた。店長よりもアップされたばかりのエロいWeb小説に夢中だった。 「せっかく決済マッシーン入れたのに、みんなニコニコ現金払いなんだもんなぁ〜」 流行り廃りに流されないこんな純喫茶の店長も、電子マネーの荒波には簡単に飲まれてしまった。 「仕方ないよね〜。ここ、ヤニ臭いおじいちゃんしか来んから」 バサバサと忙しなく新聞を巡る音が止まって、一呼吸置いてから「あー、うーん。そうねー」と気の無い返事が返ってくる。店長が生返事をする時はスポーツ新聞の真ん中のエロページを熟読してる時だ。さらに言うと、好みのおっぱいに出会したに違い無い。 だったら、と。私もエロシーンの主人公の顔を甘党さんに置き換える。汗で額に張り付いた金髪。時々無造作にかき上げるけど、腰を振る度に長い前髪はまた額に落ちて来くる。それを何度か繰り返すうちに、甘党さんは額に落ちた前髪の隙間から、余裕の無い表情で私を見つめる。そんな見た事も無い甘党さんの顔を想像したら、だらし無く組んだ自分の脚が気恥ずかしくなって、思わずギュッと閉じた。 甘党さんは慣れても不慣れでも無さそうだけど、上手そうだと思う。凄く上手そうだと思う。

〝─つづく─〟の文字まで辿って、ギュッと閉じた脚をまた緩めると、バサバサと新聞を畳む音が聞こえた。 「禁煙とか分煙にしてもさぁ、今さら若者やマダムが来ると思う?何より裏切り者みたいじゃん?今どきタバコ蒸しながらコーヒー飲める店なんてそうそう無いよ?」 余韻に浸る間も無く話を元に戻されて、舌打ちを我慢する代わりに店長を睨んだ。店長は束ねた髪からわざとらしく残したサイドの毛束を耳にかけて、2本目のタバコに火をつけているところだった。 「タバコさぁ、普通に臭いじゃん。仮にも純喫茶なのに豆本来の香りをーとか言わんの?」 「俺は喫茶店が好きなだけでコーヒーには何のこだわりも無いからね」 「ふぅん。じゃ決済マッシーンは高い買い物だったねぇ」 自分の髪の毛を一束摘んで、鼻に近づける。今日もタバコの匂いがした。 「でもほら、あの金髪のあんちゃん」 「あ、うん」 不意にかの人を話題にされて咄嗟に緩んだ脚をまたギュッと閉じたら、爪先で揺れていた黒いパンプスが床に落ちた。〝カタン〟と鳴った硬い音で全部見透かされそうな気がした。 「彼専用機だな。ハハッ」 灰皿に押し付けられたタバコは、一瞬だけ匂いを濃くして、存在を主張する。今日はそれが一段と濃く感じた。 「はい。休憩終わりー。千花ちゃん、ポスターよろしくね」 少し離れた2人がけのソファから立ち上がった店長が、パンプスを履き直そうと前屈みになった私の頭を、流れ作業みたいに撫でて行った。

分厚い木製のドアの向こうは、今日も狂った様に暑い。おまけに、大きな白抜きの文字で「5%ポイント還元」と書かれたポスターは、バカみたいに晴れた空の色とは真反対のオレンジで、コントラストが眼に刺さる。私は眼を細めながらポスターの天辺を掴んで、ビリビリと一気に引き裂いて、くしゃくしゃに丸めた。 一瞬で汗ばんだ首筋の髪の毛を片手で束ねたら、店長が吸ったタバコの匂いがまた広がった。

◇◇◇ 蝉すら鳴かない猛暑が続くと、純喫茶は普段より忙しくなる。厨房の隅に臨時で置いた大きな段ボール箱には、空になった業務用のアイスコーヒーとフラッペ用のシロップの紙パックが山積みになっている。 そんな忙しい日に限って、普段とは違う出来事が起こるもんだ。だけどその何かが起こるまでは忙しさで手一杯だから、予感なんてある訳ない。 後から思い返した時に「やっぱりね」と思ってしまうのは、過去の自分を慰めてるのかもしれない。

分厚い木製の扉が開く。反射的に「いらっしゃいませ」と視線を向けると、甘党さんが謎の美女を連れて立っていた。 「お好きな席にどうぞ」 辛うじてそう言えた自分を褒めてあげたい。それぐらい私は動揺していた。 私と甘党さんは「今日はお一人じゃないんですね?」なんて声をかける間柄じゃない。いつも通りの手順で、いつも通りの顔をしなきゃいけないのに「お決まりですか?」の一言さえ、いつもと違う調子になってしまった。 一瞬、甘党さんが私を見た。私は慌てて手にした伝票に目を落とす。 私と甘党さんのやり取りを知らない巻き髪の美女は、綺麗に上を向いた長い睫毛を瞬かせながら、流れる様にオーダーを始めた。 「ブレンドと、アイスカフェオレ。それにナポリタンを2つ。そうだ。カフェオレのミルクはソイに変更してもらえますか?」 ソイって何だよ、ソイって。豆乳って言えよ。大体こんな喫茶店にあるわけねーだろ。そんなに飲みたいならコメダでたっぷり飲んでくれ。 と心の中で返事をしながら「申し訳ございません」と、きちんと対応して、彼女のオーダーを復唱した。

驚くことに甘党さんは1つの角砂糖も入れてないコーヒーを一口だけ飲んでソーサに戻した。 「今日はブラックなんだ」 口角を上げてそう言った巻き髪の美女の口紅は、ナポリタンのケチャップや、5%還元のポスターとよく似た色をしているなと思った。 「甘いのは仕事の時だけ。頭が冴えるから」 お冷や一気飲みのタイミングを見計らっていた私は、水滴のたくさん着いたピッチャーを持ったまま、黙って2人の脇を通り過ぎるしか無かった。 その時、カップの糸じりがうまくソーサの窪みに置けなかったのだろう。手元が一瞬揺らいで甘党さんの肩が跳ねたのを、私は見逃さなかった。向かいに座った巻き髪の美女は、手にしたフォークにくるくるとナポリタンを巻きつけてる最中だったから、きっとそれに気づいてない。 甘党さんは何食わぬ顔でナポリタンに親の仇ぐらいタバスコを振りかけた。23までは数えられたけど、それから先はレジに向かうお客さんが見えたから数えられなかった。

私が知ってる甘党さんは、実は辛党さんだった。辛党さんは私が待っていた運命の人でもでも何でも無かった。いつもの4人掛けのテーブルに向かい合って座る2人を見ていると、私の中で芽を出した青い葉っぱが、霜に覆われたみたいにしおしおと萎びていく。 「千花ちゃん、何してんの?はい。3番テーブルのアイスコーヒーね」 しおしおになった私は、右手に抱えた銀のトレイをブラブラと派手に揺らしている事にも気付いてなかった。 「あ、はい」 さっきまでブラブラしてたトレイに載ったアイスコーヒーを運びながら、天井の丸いシミを見上げる。ディズニーランドから帰る時みたいに胸がギュッとした。 あれ?私この感じ知ってる。失恋した時のヤツじゃん。なんで?私、甘党じゃなかった甘党さんをホントに好きだったんだ? ギュッとなった心臓から出たイガイガが、身体のあちこちを刺激する。痺れる様な感覚は、焦りや苛立ちを濃縮した様な、でも恋のドキドキとも似た判断の付気にくい、ちょっと嫌なあの気持ちだ。 えぇー。聞いてないわー。 変わってしまいそうな自分の顔を誤魔化そうと上を向いたら、また天井の丸いシミが見えた。ハハッ。

「それさ、エナドリやラムネじゃダメなの?」 「何でもいいでしょ、別に」 「それに砂糖とブドウ糖は違くない?」 「俺はここでコーヒー飲みたいの」

テーブルで出来た迷路を忙しなく回る途中でも、くっきりと私の耳に届く声色が、私は凄く、凄く好きだったんだと思った。

巻き髪の美女が席を立った隙に、甘党さん改め辛党さんがレジの前へやって来た。有能なウェイトレスの私は、いつも通り、滞りなくお会計を済まさなきゃいけない。 「に、にぜんざんびゃぐ、ごじゅうえんになります」 レジの前に立つ私のおかしな声に気づいた甘党、いや辛党さんは、初めて、本当に初めて私の顔を見た。 初めて目が合ったのがよりによって今なんてね。辛党さんの目の色がグレーがかった茶色だって今知った。何なんだよ。

「何?どうしたの?俺、何かした?」 「いえ、ちがいまず。がぶんじょうです」 「今日は花粉は飛んでないと思うけど」 「あ、じゃあコンタクトがズレて」 「〝じゃあ〟って何なの、〝じゃあ〟って」 〝じゃぁ〟と同じ抑揚で「はぁ」と大きな溜息をついた辛党さんは、すいっと斜めに足を踏み出して、レジ台の向かいにいる私の手首を掴んだ。 「すみません!この子、ちょっと借ります」 「え?何て?」 厨房から出てきた店長の間抜けな声を背中で聞いた時にはもう、私は辛党さんに手首を掴まれて、分厚い木のドアをくぐっていた。

辛党さんは焦げそうな日差しの街を、私の手首を掴んでズンズン進む。 「勘違いしてるでしょ」 振り替えらずに言う声がやっぱり私の耳にはっきりと聞こえる。 「俺はずっとあんたを見てた」 辛党さんは明るい表通りから、ビルとビルの隙間に出来たお誂え向きの路地に私を引っ張って行く。そこでやっと掴んだ手を離されたと思ったら、今度は壁際に追い詰められていた。 ドン!と勢いよく辛党さんの両手が壁を突いて私の顔を挟む。 「ずっとあんたから目が離せなかったの、気付いてなかったの?」 綺麗な瞳が突き刺ささって、一瞬止まった心臓が、動いたことない速さで騒ぎ出す。 「あんたも俺の事、いつも見てたでしょ?」 顔が近い。空気が濃いけど酸素が薄い。声が出ない。 返事の代わりにうんうんと頷いたら、甘党さんが嬉しそうに目を細めた。 「好きだよ。ずっと好きだった。だからあんたを──」 クイっと顎を掬われたのを合図に、私はゆっくりと目蓋を下ろす。 「あんたを俺にちょうだい?」 真っ暗闇で聞こえた大好きな声は、目眩がする程甘かった。

なんて。そんな事はある訳無い。

「あの、決済」 「あ!はい!すいまっせん!」 いつもの様にふざけた決済音がしたら、夢の世界から現実に生還した。 そして辛党さんは今日も「ごちそうさま」と言って、化粧を直し終えた巻き髪の美女と、分厚い木製のドアの向こうに消えていった。 これが一方的なひと夏の恋の結末だ。私の細やかなアバンチュールは、始まる前にあっけなく終わってしまった。ハハッ。

その晩私は辛党さんに思いの丈を綴ったメールを書いた。だけど綴れる程の〝思いの丈〟が無くて「声が好き」から始まって、「顔面がいい」だの「後ろ姿が素敵」だの「無表情最高」だの、ただの好きなとこ備忘録にしかならなかった。 それでも送信出来ない備忘録は、私の携帯の中で息を殺して消去される時を待っている。

◇◇◇ 「千花ちゃんさぁ、あの金髪のあんちゃんの事、結構マジだったでしょ」 真上から私を見下ろす店長が、束ねて無い髪を揺らしながら、凄く楽しそうに言う。 「やっぱバレてた?」 ヤってる最中にこんな事を言うこの人は、本当に趣味が悪いと思う。 「浮気はイカンよ、浮気は。傷ついちゃうなー」 戯けた口振りにそぐわない強引さで仰向けの身体を反転させられて、熱い手が私の腰を高く持ち上げる。突っ伏した枕で出来た暗闇に放り出されたら、辛党さんがフラッシュバックした。 いつか妄想した辛党さんは、瞳の色まで見えてなかった。あの時はあんな綺麗な色だってまだ知らなかったんだ。脚を閉じられない代わりに、私の中をギュッとした。抱かれてる最中に、他の人の事を考えるとか、私だってかなり悪趣味だ。 「千花ちゃん、今日凄げぇ締めてくるね」 こんな時、力一杯突き上げて私を咎めたらいいのに、ゆっくりと浅い入り口ばっかり擦るのはズルい。気持ちいいのに物足りなくて、焦れた私は店長の事しか考えられなくなっていく。 「ね、お願い。いかせて?」 「ん。分かった」 腰を掴んでた熱い掌が離れると、背中全体が掌より熱い身体に覆われる。これから先、何が起こるか知ってる私の身体は、それだけでまたギュっと疼いた。気持ちいいことは全部、この人に教えられた。 耳のすぐ側で上がっていく荒い息と、店長の名前を呼ぶ自分の声を聞きながら、私が辛党さんに抱かれる事は絶対無いんだなぁとぼんやり思った。

キッチンから漏れる灯りを頼りに、床に落ちてしまったパンツを履いて、ぶかぶかのTシャツを着直す。それからベッドに腰掛けたまま、光の方に話しかけた。 「ね、お店の天井にさ、隠れミッキーあるの知ってる?」 「やっと見つけたか。アレ描いたの俺だし」 「マジで?教えてよ!!」 「教えないよ。偶然見つけるから嬉しくなるんじゃない」 キッチンからコーヒーの香りと一緒に出てきた店長が、得意気に「はい」と小振りなマグカップを渡してくれる。「ありがとう」と両手で受け取ったマグは、熱くも無く、温くも無い、冬も夏も変わらないいつもの温度だ。 「嬉しくなった?」 「まーね」 事が終わると決まり事みたいに渡される淹れたてのコーヒーに、気恥ずかしさを感じ無くなってもう随分経つ。 「でもね、何回か見てたら、ディズニーランドから帰る時みたいに悲しくなったよ」 「あちゃー。慣れって怖いねぇ」 見つけてしまったミッキーは、見慣れるうちにその価値を無くしてしまった。慣れは緩やかな下降だ。だから私はこの世界を変える何かが来るのを待っていたのかもしれない。 「はー。ほんっと。変わんないのは怖いなぁ」 「でもさ、毎日そこそこを維持すんのって至難の技よ?」 隣に座った店長は、喉を鳴らしながら自分用のアイスコーヒーを一気に飲み干して、勢いよくガラスのローテーブルに置く。 「紙パックのコーヒーが毎日同じ味なのも立派な企業努力。俺のコーヒーが毎日そこそこなのも努力の賜物」 彼はそう言って、肩まで伸びた髪を耳にかけてタバコに火をつけた。 「でもたまには本気で淹れたの飲みたいよ」 「何言ってんの。千花ちゃんに淹れてるのは特別なヤツよ?」 彼の言葉と一緒に出て来た白い煙が、暗い部屋に模様を描きながらゆっくりと広がる。 「へー。店で出す豆じゃないんだ?」 「失礼だなぁ。同じ豆に決まってんじゃん」 彼は何かを思い出したのか、まだ吸い始めたばかりのタバコを灰皿に置いてベッドの上をもぞもぞと移動する。灰皿の上のタバコからは、さっきとは違って細い煙が真っ直ぐに天井に伸びている。 「聞いてよ。聞いて欲しいんだ」 後ろから私を抱っこした彼の唇が、耳元で無駄な色気を振りまいた。こんなもったいぶった口振りには嫌な予感しかしない。 「千花ちゃんに淹れるコーヒーには、俺の愛をたっぷり入れてまーす」 「うっざ」 溜息で吹き飛ばした湯気の隙間から啜ったコーヒーは今日もそこそこ美味しくて、いつもみたいに寄り掛かった背中は泣きたくなるぐらい心地いい。 「ね?砂糖なんか入れなくても甘いでしょ?」 「わかんないけど、そーゆーことにしとく」

結局の所、私は今が案外悪くないと思える〝何か〟を待っていただけかもしれない。そんな適当で都合のいい気づきが、案外トリガーになったりもする。 お腹に回った店長の腕を暑苦しいなぁと思いながら、明日の朝目が覚めたら、あの備忘録を消してしまおうと決めた。

─終─


WRITTEN BY

一人ジェンガ2

言葉の練習帳。


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